畏れ多いイベント。由緒正しきイベント。利賀演劇人コンクール。
我々は昔から参加したくて仕方ありませんでした。
それはある意味、目標というより野望に近かったと思います。
この度、一次審査を受けたのも、
勇気も、実力(自信)も、実績もそれなりに出てきたからこそ。
シアターΧ国際舞台芸術祭での公演を先週の木曜に終え、三日間の休息。(私は執筆がありましたが)
そして本日、新たな戦場に、死線を越えた仲間が再び集いました。
少し前に私は口頭で、演出構想を語っていました。
しかしその偏見や先入観を排除するため、説明せず、いきなり原作の本読みを開始しました。
原作、というと語弊があるかもしれないので一応……
アントン・チェーホフが1886年に執筆した掌編小説。それを米川正夫さんが訳し、ヴォードビル化。
以前、トモハル氏が図書館から借りてきた小説を読んでいたので、舞台芸術財団演劇人会議から取り寄せた戯曲を読んだときは驚きました。ある意味、小説よりも想像できたからです。
ああ、なんという演劇の自由さ! 好き勝手解釈できる歓び。誇大妄想万歳!
本読みは、少し前の訳(なんせ収録本絶版)なので、少々言い馴れない言葉もちらほら。
男1・女2の三人芝居。コロスの二人には聞いていてもらいました。
約11分でした。やはり短い^^;
初見読みで、いきなり感情のようなものをベースに抑揚をつけて読んでもらったため、ただただ胡散臭かった部分が見受けられました。これまで蓄積されてきた我々独自の表現技術を制御しきれてない感じ。
次はそのまま間髪入れず、私が執筆した台本。もはやト書きがやたら増え、まんま演出台本であります。
配役は先ほどのまま。しかし今度はコロスの出番もあります。また、私はト書きを読む係。
約16分。五分増えてる……。
しかしこれは、序盤に少々の間延びがあったことと、ト書きを読んだことによるものでしょう。
原作を読んだときには起きなかった笑いが、読んでる最中、ところどころで起きてました。
きっとシュールな感じがあったのでしょう。
笑いを狙わなくてもその作品の面白みが、チェーホフならではの可笑しさが出ていたんだと思います。
一通り読みを終えたところで、意見を聞きました。
少々技術的な感想から、漠然とした下記のような感想までありました。
チェーホフであってチェーホフでない。チェーホフが驚く。etc
むしろ驚くというより怒るかも?(笑 まあ、とにかく期待値の高い作品ではあるようで何より!
私が指名し促さないと意見が述べられないのは相変わらずで残念ではありますが、それでも皆一様に上演台本に手応えを感じてるようでした。
今度は趣向を変え、演出である私、ラディーによる本読みを開催。
上演台本を一人で、全ての役を情感豊かに読みました。約12分でした。
読み終わった頃には汗だく。いやはや死にそうになりましたね。肺などの臓器も(苦笑
私が必死で読んでる間、皆には原作のほうの戯曲を目で追っていてもらいました。
これが重要だったのです。今回やった初の試みを体感するために。
実は、上演台本と、改変前の戯曲を比べると、一言一句変化がないのです。
それは、改変の際に自らルールを課したからです。
句読点の位置や、台詞のニュアンスは改変を許す。
また、台詞をコロスの役割をするものに割り振り可能。
しかし、倒置法や七五調といった文体の改変は禁止。
言葉を現在風に置き換えることも禁止。
それでいて、どこまでこの作品を自分の解釈・想像した世界として再構築・創造できるか。
結果は先ほど記した通り、成功したと言えるでしょう。
まあ、そもそもなぜ、こんなルールを課したのかと申しますと、台詞の改変によりコンクールで失格になる可能性が出ることを回避したかったからです。
もし逆に、改変せずにして、当初改変して表現しようとしたことを表現できるなら、と考えたのです。
演劇とは、制約がある芸術です。
しかしその制約があるからこそ、面白みがあるのだと私は思います。
役者もスタッフも同じです。
制約がある中で、足掻き、自分なりにその中である種の自由を手に入れてこそ、だと思います。
「井の中の蛙大海を知らず」
その後に続く、日本人が勝手に作った言葉の中で有名なのは、
「されど空の高さを知る」でしょうか。
どうやら「されど井戸の深さを知る」というのもあるようです。
私としては、後者を推奨します。
蛙は空でなく、まず井戸を知るべきです。
by 演劇死神
以下、この日のレスポンス……
★うーん
NAME: ともはる
すでに戦いは始まってしまいました。残り日数はすでに40日あまり。
稽古がブルに出来るとも限らないので、飛ばしていきますよ。
この面白い作品を殺さずに、どう魅せるかやってやります!
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