3ページのみを数回通して終わってしまった。しかし、通すたびにニュアンス(声・動作ともに)調整。
新シーンに着手できなかったものの、非常に充実した稽古場であったと私は思う。
以下、私の発言録。
稽古で反復して色々と調整するときや、家であれこれするときは考えながらでもいい。しかし、相方と合わせての通しのときくらい、何も考えずにやりなさい。
常に初めての感覚でなければ……。
その後の展開を知ってるなんておかしいだろう?
もう一度問う――君は今、新鮮か?
ちなみに、男役も婦人同様、スリリングでなければならない。
いや、ある意味、よりスリリングでなければ……。
婦人の言動は理路整然としているように見える。
それに対し、男は明らかに不条理をもたらす存在である。
男の態度が違っていたなら、この作品は不条理には思えなかったろう。
女をある惑星とし、何かしらの引力が生じている。
人間単体はミクロ、舞台全体はマクロコスモスである。
遠くに居るときと、近づいていくときと、近くに居るとき。
その身体の状態はイコールであることはないんじゃないか?
歩き方の質感が皆ばらばらでいただけない。
ある種のルールを見出しなさい。
君らが発話するとき。それは君らが実体となるとき。
発話してないときは透明・半透明だったりせねばならない。
いや、物質としては存在しているかもしれない。モノ言わぬ身体として。ただそこに在らねばならない。
また、発話していくうちに強いエネルギーが生じたなら、実体はより強いものへとなる。
そうしたとき、初めてコロスは、他者(人間)に影響を及ぼすことが出来るのである。
演劇死神